「スポーツ オブ ハート」トークショー&応援ライブに森友嵐士(T-BOLAN)が熱唱

6日(月・休)、国立代々木競技場第一体育館で開催されている「Sports of Heaet」(スポーツ・オブ・ハート)で、トークショー&応援ライブが行われ、高橋尚子、森友嵐士などが登壇した。

 

パラリンピアンの呼びかけにより、未来のニッポンのために健常者と障害者の枠を越えて、スポーツ選手、ミュージシャン、文化人たちが協力し合い、“すべての人たちが幸せに暮らせるニッポン”を目指すプロジェクト<Sports of Heart> 。 5月5日(日・祝)6日(月・休)の2日間、国立代々木競技場第一体育館で開催された。(※クリックで画像拡大)

 

「乗り越える!!」をテーマに高橋尚子、プロ車いす陸上・廣道純、シッティングバレーボール・西家道代、競泳・秋山里奈と、森友嵐士(T-BOLAN)によるトークショーを開催。

 


(左より 高橋尚子、廣道純、西家道代、秋山里奈)

 

高橋尚子

23年間陸上をしていた中で、一番苦しかったのは怪我だった。世界陸上に出場するための大会、1999年オリピックの前年の怪我で、我慢しながら走っていた。(練習では80kmを走っていた)大会当日に小出監督から「今日はやめよう。お前は山の八合目まで登ってきた。そしたら猛吹雪になり、自分は登りたいが登れなくなった。(頂上まで登りたいという)気持ちだけで達成感だけを求める。まわりにも心配をかけるしマイナスになってしまう。一回ここは降りよう。俺がもっと高い山(オリンピック)に登らせてやるから」といわれた。オリンピックの前年で不安だったが、(小出監督の)言葉を聞いて欠場することをきめた。学んだことは、苦しいことを苦しいまま向かってしまうことよりも、苦しい中でも転換することはできないか。こちらから見ると断崖絶壁でも、違う方面からみると、なだらかな坂かもしれない。オリンピックに出場して、金メダルを取って、あの一年前に走っていなくてよかったなと思いました。(怪我をしたときに)走っていたら致命的になり、オリンピックに走れなかったかもしれない。悪い場面にあっても、いつも80km走っているからこそ、神様がくれたプレゼントかもしれない。”今日は神様がくれた休みだから、思いっきり遊ぼう。そのかわり、走れるようになったら頑張るぞう”というパワーに切り替えて、意識的な転換を学びました。それからはポジティブな気持ちで、良いことも悪いことも考えられるようになり、乗り越えてきました。

 

廣道純

競技生活23年目突入しました。元々は健常者で障害はありませんでした。15歳の時にバイクを乗り回し、事故を起こして脊髄を損傷して車いすの生活になりました。(健常者から障害者になった)その時に挫折を味わっていなかった。事故を起こして死んでいたかもしれない。病院で目が覚めた時に「生きているんや」と一番最初に感じた。寝たきり生活になりましたが、”生きている”という喜びを先に感じていたので、「一生、車いすで生活をしていくことになる」と、親父に宣告されたときに、車いす生活をすんなり受け入れられたのです。”助かったから・・・生きているからよかった。また何か出来るかもしれない”と思った。何も出来ない状態でしたが、”生きているというだけでよかった”というところからスタートできた。健常者が突然障害者になるとマイナスにとらえがちですが、健常者が死んでしまってということを考えると、体半分でも障害者としても、生き残っていたという喜びを感じたので、全く挫折にはならなかった。それ以降、(車いす陸上の)競技を知ってからも、苦しい場面や試合に負けて悔しかったりもしましたが、どんなことが起こっても「こんなこと大したことないな」という思いで、まだ現役にこだわって頑張っているつもりです。15歳でバイク乗り回すような生活をしていた者が、世界大会で一番になるために、日本にいるだけでは通用しないので、自分で(世界へ)出て行ってましたが、日本人は言葉が・・・英語ができないといわれ続けていたので、”これじゃいかん、世界で活躍するために、英語を覚えよう”と思った。中学・高校と全く勉強しなかった僕が、車いす生活になって、車いす陸上で一番大事なものと出会い、車いす陸上で一番になるために勉強することができた。英語も話せるようになりました。苦手だ苦手だなと思っていたが、自分の好きなことのためには、努力できるものだなと思いました。僕みたいなやんちゃ坊主でも、英語が話せるようになるんだなと感じました。世界で一番になるまでは、故障など気をつけて頑張っていきたいと思います。

 

西家道代

私はシッティングバレーボールといいまして、床に直に座ってするバレーボールをしています。小さいときからバレーボールをやっていました。試合中に怪我をしてから5年半入院をしていました。”何で私なの?”と、毎日そんなことばかり思っていた。(5年間で10回の手術)挫折というよりも、生きる希望さえなくなってしまった。入院して3ヶ月頃にお医者さんからは「あなたの足は治りません」といわれた。そこから本当に苦しくて苦しくて・・・生きる希望もなく、ずっと下を向いていた。ある日、家族が「代わってやれなくてこめんね」といわれたのです。

”私を見ているまわりの人、友達や家族の方が、自分よりも凄く苦しいんだ”と、初めて気がつきました。その時に心の底から”逃げてはあかん、立ち向かおう”と思いました。ずっとバレーボールをしてきたので、(入院していたので)時間が止まってしまった。今は足がありますが・・・足の切断の話を病院としていた時に、わずかな希望を失った時に、その時にやっと体を鍛えにいこうと思えるようになった。トレーニングに行き始めて、たまたま「体の不自由な人のバレーボールはやっていませんか?」と聞いてみた。そうしたら「やっていますよ」といわれ、嬉しくて嬉しくて!バレーボールはやっていましたが、シッティングバレーボールを知らなかった。シッティングバレーボールを見に行った時に、”バレーボールだ!やりたい”と凄く思ったのです。足を切断された方や生まれつき腕のない方や、脳梗塞で半分片麻痺されている方々が、ユニフォームを着て、汗を流して、凄くいい笑顔でプレーをしている。”あー馬鹿だな。何で挑戦することをする前に、できないかもしれない”と思ったと思ったのだろうと・・・。その時、凄く反省しました。やってもいないのに、出来ないと思うのはやめようと思いました。まず挑戦することを学びました。諦めないという気持ちと、一人じゃないんだよと。どんなに辛くても、ほんのちょっとの勇気で、顔を上げる勇気と一人じゃないということで乗り越えられました。

 

秋山里奈

(生まれつき全盲であった)乗り越えるということで、一番はじめに思い出したのは、世界2位と1位の壁。それを乗り越えるのに8年間かかりました。3歳から水泳をはじめ20年間続けてきました。初めてパラリンピックに出たのが16歳のときのアテネでした。そこで2位(銀メダル)になりました。勿論嬉しかったですが、表彰台で他国の国歌が流れた。そこで”私は負けたんだ”と、初めて悔しさがこみ上げてきました。世界一大きな祝福は金メダリストなんだと思ったので、絶対次は優勝してやろうと思いました。北京の時は、得意の背泳ぎが種目から外されて、自由形でしか道がありませんでした。自分は自由形が苦手だったので、種目変更して8位入賞に残ることでも凄いことではあったが、目指していた結果ではなかったので、次のロンドンを目指しました。ロンドンの前の世界選手権で背泳ぎでもラスト3秒で、あっさり抜き去られてしまった。今までに経験したことのない屈辱だった。2位と1位の間の差はこんなにもあるんだなと思った。ロンドンまでの間は、記録も伸びなくて、今までで一番のスランプでした。結果的にロンドンで金メダルを取ることができました。それは、最後まで諦めない。ゴールタッチまで”金メダル、金メダル”と強い気持ちで2番と1番の間の壁を乗り越えてきました。

 

森友嵐士

95年アルバムツアーのリハーサルで、喉の調子を悪くした。無理して体調が悪いんだろうなと思っていた。それが治らず原因がわからないままツアーを気持ちで乗り越え、ツアーが終わってから病院を駆けずり回ったが病名がわからず。スタジオに行っては、エンジニアやメンバーに自分の声を聞かれるのが嫌だったり、歌うことが自分にとって苦しいことになってしまう。何十というドクターにお会いして、3年くらい経って心因性発声障害と判明。明日治るかもしれないが、10年後治っていないかもしれないといわれた。(判明したときがT-BOLAN結成から10年くらい経ったときで)”バンドをはじめてから今までの時間が経っても、まだ治らないってどういうこと?”と・・・。”じゃあ何をすればいいの?”と・・・投薬治療、カウンセラーの心療内科とか何箇所も行ったりしたが、自分と同じ体験をした人の言葉じゃないと受け入れられることができなかった。自分の心ががさついて、自分の中の嫌いな部分が増えている感じがした。自分のスタジオが富士山の見える山の中にあり、そのスタジオに行くと、人と会うことがなく自然だけで、誰かと自分を比較しない。仲間などまわりのことを喜べないようになってしまった。”こんな男じゃなかったのにな・・・”。富士山にいって自然と向き合うことで、純粋に自分の心の中と向き合うことができた。”生きているんだけど、生きている気がしない”。何をしても、もう一度、声を取り戻さないことにはスタートしない。10年くらいはいいと思うことを続けては、成果のないことに挫折して、自然の中に逃げていたことの繰り返し。自分のやっていたことに、ちょっとでも成果が見えた瞬間、これだ!この方法が、1ミリでも掴んだら、そこを突き進んでいけると思った。その時に同時に思ったのは、歌えていた自分から声を失った自分になった時に、マイナスになった気がした。最初のリハビリでは過去の自分に戻ろうとした。ここをゼロにしよう。過去に戻った自分を取り戻すのではなく、今の自分からやっていけばいい。そう思えたときに逃げがなくなった。そして歌う歌を変えた。自分の歌をやめよう、『上を向いて歩こう』を・・・。上を向いて歩きたかったんだろうね。俺の症状は声にならなくて息が漏れることだった。漏れるところを赤でチェックして、毎日繰り返してやっていくことで、1ヶ月経つと(赤でチェックしたところが)50個から45個になって数が減る。1ヶ月で5個なら2ヶ月で10個か・・・。ドクターから方法がないといわれた時に、自分で見つけるしかないと思った。そこにはいろんな人の応援があったし、何もいわずに黙って待っててくれたり、形にならない言葉にならない思いやりに、背中を押され支えられていた。乗り越えるためには、”自分の欲しいものを、自分が見つけること。自分の一歩を自分のために踏み出す力”。誰かと比べるのではなく、今の自分の心の声をちゃんと聞いて、ドアを開けたくなったら開ける勇気を。その勇気があったら、一つ一つ、一歩一歩、自分の声を信じて、自分の力を信じてと思います。大変な時ほど、まわりの声に耳を傾けて、どんな今日も今日を生ききる、今日を楽しむことも近道かな。

 

森友嵐士が「スポーツ オブ ハート」のイベント出演が決まった後に、西家道代選手からファンレターが届き共感を得て「一緒にやろうよ」と。初めてfacebookで友達申請させてもらったことを明かした。

 


会場では『「抱きしめていたい 』のPVが流れ、『祈り』『歌を見つけたカナリヤ』をピアノの弾き語りで熱唱し、会場の観客に勇気と希望を与えた応援ライブとなった。

 

森友嵐士 オフィシャルサイト http://www.moritomo-arashi.jp/

 

 


会場では車いすバスケ体験教室や空手体験教室、応援ライブではmickey-TK-POPからはG.I.AM

M.E.Nがパフォーマンスを繰り広げた。

 

スポーツ オブ ハート http://s-heart.org/sports_of_heart/

 

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